欧州の乳業事情視察から帰国した太田寛一は、十勝8農協(士幌町、鹿追町、音更町、上士幌町、川西、幕別町、豊頃町、中札内村)に農民工場建設を呼び掛けました。
この年、不足払い制度がスタートしましたが、まだまだ酪農家は貧しく、北海道でさえ1戸当たり乳牛飼養頭数は数頭の規模にすぎません。太田は、欧州をモデルに酪農家自らが乳業経営を行うことで、酪農経営の長期安定を図ろうと考えました。
ところが、国や大手乳業がこの考えに反対します。太田が構想した工場予定地の音更町では、乳業工場の建設は道知事に届け出るだけで可能でした。これは同町が「高度集約酪農地域」外だったからです。集約酪農地域に指定されると、国の濃密な支援が得られる一方で、工場などの建設には知事の認可が必要になります。
こうした中、1967(昭和42)年2月3日、十勝全市町村長宛てに「集約酪農地域について意見を聞きたい」と、道から親展速達が届きます。返答は2日後の2月5日。太田は翌4日、十勝農協組合長会議を緊急開催し、この日のうちに工場新設を十勝支庁に届け出ることを決めました。土曜日でしたが、ぎりぎりで受理されました。
こうして北海道協同乳業は建設届け出から3カ月後に着工、わずか6カ月の工期で完工し、この年の11月9日にバター3トンと脱脂粉乳15トンを初出荷します。ところが創業2年目の68(昭和43)年、需給緩和で過剰在庫を抱え、倒産寸前に追い込まれました。
窮地を救ったのはホクレンや十勝8農協です。増資など強力な支援を行い、危機を脱した北海道協同乳業は全国に先駆け、紙パックによる市乳の販売、第二乳製品工場の建設など、次代を見据えた積極策を次々に打ち出します。その後、ブランド名の「よつ葉乳業」に変更、今日に至っています。
その基は創業者・太田寛一がつくった「適正乳価の形成」「酪農経営の長期安定」の社是にあります。全役職員がこれを脈々と受け継ぎ、いまも前進を続けているのです。(おわり)(農政ジャーナリスト・神奈川透)
日本農業新聞
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